海底の先

日常や本、映画などで心が動いた瞬間を文章にします。

「詩」とようやく仲良くなった

 

「詩の解釈はそれぞれでいいのよ」という言葉は私の上をつるつるとすべるばかりだった。

いや、言っていることは理解できる。

小説でもなんでもどう感じるかは人それぞれでしかないからその延長線上のことだと思えばいい。

それでもある程度の正解はあるはずだ。国語の問題にだって答えはあり、作者にだって描きたかったものや伝えたかったものがあり、比喩には例えた元の事柄があるはずだ。

詩は短さゆえに一言でも捉え方が違うと詩そのものの意味や色が変わってしまう。

その繊細さがひどく怖い。

まったく違うように捉えられてしまったら作者は無念なんじゃなかろうか。

 

作者にはこんな人生があって、こんな事柄が起きたときに書かれた詩なんですよ、という背景まで知識を得て、ああなるほどと安心をする。

ここの比喩はこの時代ではこういったものが、とか、この解釈とこんな解釈があって、とか、こういった技法があって、とかそんなことを知れば知るほど安心するのだ。

 

しかし、これでいいのか?

疑問を持ちながら、それ故に詩を好んで読むことはなかった。

 

道重さゆみちゃんのポストカードが貰える詩集フェアにつられて何冊か読んでいたところ、詩の解釈は自分のためだけにするのだ、していいのだということが実感として分かるようになった。

他人の作品で自分の世界を持つなんて傲慢なことだとも思うけれど、それが許されるのだと思うようになった。

作者が様々な情景や事柄から受け取るものに手を伸ばし思案したように、私も詩をきっかけに自由に思いを巡らせてよいのだ。

 

詩は花や草木や太陽、雨などと同等のものなんじゃないかなぁ。