海底の先

日常や本、映画などで心が動いた瞬間を文章にします。

料理を自分で作ると美味しい?

 

「料理を自分で作ると美味しい」

言い回しは違くとも良く言われることである。

しかし、普段料理をしないため全然ピンときていなかった。

 

小学生の頃に家庭科で作ったときも、自分で作ったということを肯定したい(させたい)が故に無理に言っている言葉に聞こえた。

…イヤな小学生である。

 

だって完成した料理があったとして、それを作ったのが自分であろうが他人であろうが味自体は変わらない。それなのに愛着を持てと気分を押し付けられている気がしてうっすら気持ちが悪かったのだ……イヤな小学生である。

 

それに、お店の料理のほうが美味しい。インスタントとか冷食だって美味しい。大量生産する企業の努力は凄い。

 

最近、YouTubeのおかげで料理…というか食べることに興味を持った。

そしてようやく「料理を自分で作ったから美味しい」ということを私なりに理解した。

旬の美味しい野菜を使っているとか、調味料はどうとか、味をこのようにするためにこの工程を挟んであるとか…味に対する解像度が自分で作ると段違いなのである!

 

〇〇より〇〇のほうがいいんじゃないか、自分好みの焼き加減や濃さにした、そういう工夫を自分で行ったうえで味を楽しむこともできる。

 

過程を理解しているうえで結果に触れるとその結果を深く理解することができて、美味しい。

そんな当たり前のことだったのだ。

 

YouTubeで観ているレシピが良いというのもあると思う。かんたんに美味しく作れる方法を惜しまずに教えてくれるのでありがたい。

 

もっといっぱい料理したいなぁ….

感想 ドラマ『Tシャツが乾くまで』

ネタバレ気にせず自分用のメモ程度程度書きますのでご注意を。

このドラマ見てない人は読まないでね。

 

以下Wikipediaよりあらすじ 

 

出版社で働く瀬尾咲子(蒼井優)と、カフェを営む夫・瀬尾充(松山ケンイチ)は、穏やかな日々を送る仲睦まじい夫婦。出版社勤務の咲子は毎月第3金曜日が締め切りで多忙を極める一方、充のカフェの定休日も金曜日。休日がなかなか重ならない二人は、それでも家事を分担しながら支え合って暮らしていた。

ある日、家の洗濯機の乾燥機能が不調で、充に教えてもらったコインランドリーへ行った咲子は、そこで近所に住む園田樹生(中島歩)と知り合う。

樹生と別れ家に帰った咲子に、充が長野県で発生した高速バスの転落事故に巻き込まれたとの知らせが届く。この事故によって充は行方不明となり、その他の乗客と運転手は全員死亡だった。

同じバスに妻が乗っていた樹生と咲子は互いに支え合い、家事を手伝うなどしながら少しずつ距離を縮めていく。しかしある日、樹生は「妻・園田あずさと充は不倫関係にあった」と衝撃の事実を打ち明ける。

 

あらすじ終わり。

 

話題になっていて、少し気になったので久しぶりにドラマを見ました。

TVer便利。

途中からなので最初のほうはダイジェストでしか見ることができていません。

 

これは恋愛、不倫、サスペンス、ミステリー、なんのカテゴリーのドラマなのかなかなか分からないような流れ。

登場人物についても謎が多く、想像が働くようなシーンを作るのが上手くてSNSで話題になるの理解できる。

 

それにしても蒼井優の演技がいい。私はあまり3次元の映画やドラマを観ないけれど、蒼井優が出てくる確率高すぎる……極論、蒼井優が演じればなんでも良くなる

そして分かりやすく「可愛い」をしていないのに、人としてあまりに可愛い……なんなんだ…

 

松山ケンイチのちょっと変な人感のうまさもすごい。一見は常識人、一緒にいて過ごしやすい人、それでいて心に致命的な弱さがあって失踪癖を持つという役を説得力があり魅力的に演じている。

あとあまりに顔が良い。

 

脚本にツッコミどころはたくさん確かにある。

園田あすかの死や咲子の離婚歴がただの装置になっているし、園田樹生の急なキャラ変?には私はついていけてないし、失踪時の手続きとか家のローンとか、いろいろ無理があるなと思うし、ストーリーが合わない人は合わないだろう。 

いろいろ無理はあるけどそこは重要なところではないからまぁいいや、ぐらいの大雑把さで私はこのドラマを観ている。

 

最終話まで観て、このストーリーが伝えたかったことは、夫婦や恋愛などの型に囚われずそれぞれが過ごしやすいちょうどいい距離感でいることの良さ、であったなと思いますが…

 

ただちょっと難しくて、咲子が夫婦という形に拘らなくても大丈夫になった、という流れで終わっているのものの少し浮遊感がある。

いちばん言いたかったであろう結論なのに、蒼井優という名俳優をもってしても、セリフが浮いている感じがした。

それはそれで正解なのだろう。

 

咲子は家庭や夫婦という形以外にも人との繋がりでの安心感を得て、大丈夫、という気持ちに今はなっているだけと薄々気が付いているんじゃないかなぁと思う。

もちろん家族や夫婦に執着しなくていいようになったのは肩の荷が降りてよかったことなんだけど。

 

形に囚われず、自由を得てハッピーエンド!ではなくて「ちょうどいい距離感」は常に調整していかないといけない。

 

咲子の家での園田親子との花火のシーン、子どもの裁縫を勝手にはじめていたり、園田樹生の微妙な目線とか…

ただ楽に話せる間柄でハッピーエンドというより一悶着ありそうな雰囲気がありましたね

 

家族に執着しなくなった咲子はもしかしたら次に結婚したらうまく行くのかもなぁ……

でも充はきちんと離婚届を出したのか…??とかいろいろ考えちゃうね

 

難しい考察というより、自然と想像が働いてあれやこれやと妄想しちゃうひっかかりを作るのが上手いドラマでした。

日常の良い楽しみでした。面白かった!

二人展「遠い色」

初めて高円寺に行きました。

百岡古宵ちゃんと、めばちさんの
二人展「遠い色」に行くためです。

 

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道中ではアイドルネッサンスを久しぶりに聴いていました。

本当は気軽にいつも聴いていたいけれど心が揺さぶられてしまうから、そうもいかないのです。

 

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あのときの青春の音はとても眩しく、直視することが難しいこともあります。

もちろん、今の生活のなかで背中を押してくれたり心の支えになってくれたりもします。

 

ただの観客の私がそうなのだから、歌っていたメンバーたちにとってはどれほどのものなんでしょうか…

 

みんなそれぞれ自分の人生を歩んでいて幸せになってほしいなと思うけれど、そう思うことすら理想を押し付けることではないかと不安になります。

今の時代はなにが幸せかは自分で決める必要があります。

む、難しい……

 

百岡古宵ちゃん…こよちゃんはアイドルネッサンスの後にも開歌として歌を届けることを大事にアイドルとして歌い続けてくれました。

開歌の卒業ライブでサプライズで歌ってくれたアイドルネッサンスの「17才」と「前髪」は本当に感動してなにかが昇華されるような気持ちになったことを覚えています。

 

あのときの青春を大事にして、向き合って、そのうえで私たちの前に立ってくれたのがこよちゃんでした。

メンバーのなかでもあのときの青春にいちばん近い形で活動をしていたのがこよちゃんです。

やり切ったという思いがあるだろうと想像していました。

 

その後もインスタなどから伺えるこよちゃんの様子は、もがきながらも光のほうに歩み続けて、良くあろうとしていました。

 

だからある程度、あのときの青春は噛み締めて消化して歩みを進められているのかなとなんとなく想像していました。

 

でも、二人展「遠い色」をみながら、切実な葛藤や気持ちが伝わってきました。

おこがましいことに、あいさつに書いてあった文章に共感も覚えました。

私にできることがなにかあったかなぁ。

理想を押し付けてしまうことが怖くて、応援しているということも、みているよということも避けていました。

インスタにコメントを残すとか、認知を貰うとか、そういったことが苦手なのです。

でもこよちゃんにあなたは素敵だよと伝えるべきだったのかもしれない。

こよちゃんだけじゃなくて、もっとたくさんのひとにも。

このことに気が付けたのはこよちゃんが表現をしてくれたからだねぇ。こよちゃんは本当にすごいや。

 

この二人展「遠い色」に行けてよかった。いつでも戻れるそこに確かにあった青春だったこと、それとまた向き合えたこと。

こよちゃんと開歌の卒業ライブ以来に会えたこと。

変わらない笑い声と笑顔が可愛かったこと。

でも会場のギャラリーに合うような大人な女性になっていたこと。

 

緊張しすぎて上手く喋れない私の様子がこよちゃんに理想を押し付けていなかったか、息苦しさを与えていなかったか、それが怖い。

こよちゃんはそんな私にも優しくお話しをしてくれて、本当に素敵な女性だった。

 

こよちゃんは心細さも全部表現して、絵で東京まで、私たちの心まで、飛んできてくれたね。

私たちを救う明日の羽になってくれた。

 

そうだった、羽ばたいている間は消えないんだった。

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私も頑張ろ。

絵本『最初に夜を手ばなした』感想

図書館の美術の棚のなかに絵本という項目を見つけ、そのなかで『最初に夜を手ばなした』というタイトルが気になって手に取りました。

 

生まれつき音が聞こえない著者の椿冬華さんが徐々に目がみえなくなり、そのなかで伝えたいことを描いています。

 

ネットで検索してみたら出版社のマガジンハウスによるメイキングがあったのでリンクを貼っておきます。

 

『名も知らぬ少女のツイッター投稿が、なぜ多くの人の心に刺さったのか。――スマートフォンの中で大きく手をふる少女はアッシャー症候群を患っていた』

https://magazinehousebooks.jp/n/nb98114073e0a?sub_rt=share_b

 

病により様々なものを失っていくにも関わらず「奪われた」ではなくて「手ばなした」という表現を使っています。

そのことに失っていくことに対する受容と著者の強さを感じました。現実が迫ってくるため生きていくには受容せざるを得ないのだとも思います。

(話は飛びますが、精神科医の益田裕介先生がYouTubeで言っている「仕方がない」ということはこういう受容のかたちなのかなと理解できた気がしました)

 

さよならする、という表現もありやはり客体ではなくて主体なんですよね。

病による変化そのものはもちろん主体的なものではないはずで、そこから一歩踏み出して「手ばなす」とすることで主体を取り戻す。

病に振り回されるだけの客体から脱出して前を向くには受容の過程が必要なのだと思いました。

すごい、それは本当にすごいこと……

 

ただ前向きでポジティブな絵本というわけではなく、そこにある絶望の重みが絵と文字で切実に伝わってくるページがあります。

上記のメイキングだけではそこは分からないので是非実際に読んでみてください。

 

こうして魂がこもっているからこそ伝えたいメッセージが響きます。

 

様々なことができなくなっていくのは老化の現象の先取りでもある、というのですがそれは本当にそうで…

 

絵本ではスマホのカメラ越しに世界を見るという方法が描かれています。

私は近視で眼鏡をかけているのですが、その眼鏡をどこかに置いて見失うとスマホのカメラ越しに探すということをよくやります。

一瞬ではありますが行動は同じで、地続きだと思います。 

 

祖母は手芸が趣味だったようですが、視力の低下によりできなくなりました。

私もいつかそんな日が来るのかもしれません。

 

それまでにどう過ごすか、その後もどう過ごすか……できる限りのことはしたい、ね……

 

時々読み返して忘れないようにしたいから買おうかなぁ。

その前に部屋を片付けねば……

 

 

「死にたいバー」に行ってきた

最近、いい天気ですね。5月、春ですからね。

GWは休めましたか?私はのんびりできたようで、すこしだけ元気があるようです。

 

ですので、だいぶ前より存在を知っていたイベント「死にたいバー」に行こうと思い付きました。

https://twitter.com/shinitai_bar/status/2049810082335195496?s=46

 

一般社会では「死にたい」って言うことはタブーですよね。

このバーでは、そのタブーを犯して死にたい気持ちについて話せるようです。

いろんな賛否ある場だとは思いますが、ただ話すだけですからね、まぁまぁ、そんな心配しないで、怒らないで大丈夫ですよ……

大人ですからね、それなりにリスクを理解したうえで、あぶないと思う嗅覚と距離を取る術を持ち、その努力を惜しみません。

自己責任の社会です、なにか嫌なことあったときにそれをなかったことにしてくれる魔法使いはどこにもいないことを私はよく知っています。

 

仕事終わり「死にたいバー」へ向かって池袋駅から徒歩20分、我ながら元気じゃないかなんて思いながら5月の生暖かい空気の中を歩きました。

 

そのバーは住宅街のなかにあることも、「死にたいバー」は人気で混雑していることも、知っているにも関わらずそのことにまず驚きました。

 

どこにいたらいいんやとぼんやりしていたらスタッフさんが優しくしてくれて助かりました。

名札を書き、お酒を飲み、スタッフさんがお話を振ってくれました。

そうこうしているうちにお酒が回ってきたおかげで喋りやすくなり初対面の人に「いつから死にたいんですか??」なんて話しかけたりし始めました。この私がですよ??不思議な空間ですね。

 

それにしても大混雑、満員電車のよう、バケツリレー式でイスを外に出したり、「死にたいじゃんけん〜」って定期的に席替えしたり、ひとつだけのトイレが大人気になったり、とにかく大賑わい。

死にたいことについて話しているのに明るい空間でした。あとみんな優しかったですね。

 

私、素直に話しすぎたところがあり、いろいろと無神経じゃなかったかな…大丈夫かな…と後から不安になっています。自分の不用意な発言で誰かを傷つけてしまうこと、とてもこわい。大丈夫だったかな。

 

みんなそれぞれの「死にたい」を持ち寄って、話しを聞き合って、楽しく過ごして、現実に帰っていく。繊細だけれど良いコミュニティでした。

 

ここだけではなくどこのコミュニティもそうなのだけれど、誰でも参加できる場は悪意を持った人も入れてしまい、たちまち壊れてしまうこともあるので…ずっと平和であることを願います。ずっと楽しく過ごせたらいい。また行きたいなぁ。

 

 

⭐︎以下はちょっと暗いし、言うべきではないことかもしれないからそれでも大丈夫な人だけ読んでね。

 

私は不安になりやすい特性があるのですが、今は「死にたい気持ちを話す」×「酒」というダブーまでは許容範囲のようです。

ただ、ここに未成年可(もちろんノンアルのみ)という設定はかなり不安になりました。

もちろん現場ではその不安を顔にも一切出さないように心を引き締めていたけれど。

 

未成年は自己責任の社会に放り出すにはまだ早く、守られていてほしい。

死にたい未成年は適切な場所でケアされてほしい。綺麗事だよね。でもそれこそ、悪意を持った人間からしたら未成年の子どもなんて都合が良すぎるので……

 

会場のイベントバーのエデン自体が未成年可でもあり、どこまでリスクを許容するかは主催者に委ねられているところだと思います。だから私がいろいろ言うべきではない。この場を用意してくれた感謝だけを口にすべきだろう。

実際にここに居場所を感じている子もいるんだろうし。

……でも分かっているけど不安なんだ、良くないな、不安がもくもく……うーん、さすがに黙ります。

みんな健やかに過ごせるといいな。

映画『国宝』感想

今更ながら、映画『国宝』観てきました。

 

ネタバレ気にせずにとりとめもなく感想を書きます。

 

・万菊について

私が引き込まれたのは田中泯演じる人間国宝の万菊のシーン。

万菊が出てくるシーンでは何度も鳥肌が立ちました。人間が積み重ねてきたものの凄み。「美しい怪物」という劇中にあった言葉そのものでした。

これは本物だ、という説得力がありすぎる。

なんだあれは…

 

・「芸」か「血」か

歌舞伎という特性上「血」が重要で、ただそれよりも万菊、俊坊(横浜流星)、俊坊父母は「芸」を求めずにはいられないのだと感じました。

だからこそ喜久雄(吉沢亮)が最終的にあそこまで辿り着けたわけです。

(追記:現実の歌舞伎は「芸」か「血」かという二項対立ではなくて血が芸となり混ざり合っていて分けることができないものだ、と思います)

 

・喜久雄(吉沢亮)の人間らしさについて

喜久雄の美に取り憑かれたような様子から、サイコパスという感想もちらほら見るけれど、それは違うかなと思います。

代役をやるときに震えてる姿、彰子ちゃんを騙したんかと言われたときの返事の声、娘に対する「覚えてるよ」の声、それはとても人間みに溢れたものでした。

「自分が拍手喝采を浴びるために周りを犠牲にした」のではなくて才能を背負った宿命を果たすしかなかったのだと思うのですよね。

そしてそれは、みんなに望まれたことなのです。

 

・舞台は観客がいて成立する

喜久雄がドサまわりして演じているとき、芸があっても客がそれを求めていないと美しさはそこには生じていません。演者と観客が揃ってはじめて美が生じる、そこを痛いほど表現してくれたことに観客側として救いを感じました。

 

・主題歌「Luminance」について

井口理が歌う主題歌が非常によかったです。

才能に恵まれ、すべてを捨てて歌舞伎に打ち込み、大勢にその美しさを求められ、自らが追い求めてきた景色に辿り着くも、そこは無の境地で深い孤独が存在する。それらを包み込むような優しい光の音でした。

 

・喜久雄と俊坊の関係性について

なんともまぁ…良い2人組でして…私が語るまでもないでしょう…この点に限りませんが、考えを巡らせることができる余白がちょうど良くあり、だからヲタク層にもウケているんだなぁと思いました。

 

・映画という特性について

展開が早くてダイジェスト感があり入れ込めない。後に長編小説を3時間に収めたと知る。

時間の都合上、実写映画は物語の筋より映像美を追求するものが多い気がするので私に合わない媒体なのかもしれない。

また、感情を説明するための台詞になっていてくどい箇所、男女を描く際の濡れ場、歌舞伎シーンでの寄りの多さや音の表現が安易と感じたけれど、これのおかげで分かりやすくなり大衆に受け入れられるのだとも感じた。映画は規模が大きい分、それが必要なのかもしれない…

 

 

 

 

働く理由について

 

転職して2年目、働くうえでのモチベーションが保てなかったのが一番の反省点。

 

「役に立ちたい」という単純な気持ちで働くと役に立てなかったときにめちゃくちゃモチベーションが下がる。

役に立てなかったというか、役に立っていると評価されなかったとき、という表現が正しいだろうか。

仕事の評価、なんてものは数字に出やすい職業ならともかく、そうではないと雰囲気というか人間関係みたいなもので決まってしまう。

まあ、思いっきりつまずいたわけです。

人間関係が苦手なうえにそれをカバーできるような有能さもない。

有能でなくとも一生懸命真面目に働いて役に立てるように頑張ろう、とやっていたのですが上司が私を邪悪なもののように扱うので気力が奪われていきました。

 

そしてそんな自分が嫌でした。他人に仕事のやる気が左右されてしまう自分の軸のなさ、傷つきやすさ、弱さが嫌でした。

 

なぜ働くのか、を自分なりに再考した結果、「社会との繋がり」という面が大きい。

お金を稼ぐため、だったら今の仕事をしていないと思います。

でも本来なら生活のために仕事をしているというのが健全なのですよね。

生活のために理不尽にも耐えれる状態が大人。ただ私は自分の生活が価値あるものだと思えないから、生活のために仕事をしないといけないという状況をつくりだしていない。そんな面でも自立できていないんですよね。

ただ無理やり経済面で自立を試みたらそれこそ完全に崩壊する自分の弱さも分かっている。だから頼れるものに頼りながら、「働いているという状況」を維持するのに精いっぱいの年でした。

 

「社会との繋がり」のなかで良い存在でありたいのだと思います。特別褒められたいとか、優秀でありたいとか、誰かに必要とされたいとか、そういう強い承認欲求とはまた違う。ただの勤勉な労働者でありたいというか。ただのひとつの変哲もないひとつのピースになりたいだけ。普通になりたいということなのでしょうか。

 

そんな中で私を支えてくれたのは前職のときにいただいた言葉であったり、益田先生のYouTubeであったり。益田先生のYouTube、特にライブ配信なんかはついダラダラとみてしまっていたのですが、そこで価値観とか考え方がいつの間にか頭に染みついていたようです。職場で上手くいかないときにどうしたらいいかとか、上司をどう理解したり捉えたらいいのか、とか。単なる知識じゃなくて感覚として伝えてもらったものがあってだいぶ支えになりました。知識を引き出して使うとかいうレベルじゃなく、自然と考え方や行動に移せるんですよね。教育効果が高すぎて結構怖い。

 

私のやる気を削いだのも、支えてくれたのも結局は人間。

 

難しいものですね。

こんなに自分に軸がないなんてびっくりしちゃった。3年目はもうちょっと強くなろう。