海底の先

日常や本、映画などで心が動いた瞬間を文章にします。

さあ、政治の話をしよう。

 

政治の話をするときにはTPOが大切だ。日本社会で生きていくうえでの大前提。それはただ衝突を避けるためではなくて、政治に対する考えは生い立ちや金銭状況、様々な属性などかなりデリケートなことと接しがちだ。だから仕事場では避けたほうが無難だ。デリケートなところに立ち入ってよい関係性ではない場合が多い。

 

それでは政治的な話をするのに適した場所が日常にあるかというと、正直あまりないのは私だけではないだろう。

インターネット…ツイッターは投稿者の使い方にかなり左右される。そしてどのように使っていてもツイッターは議論には向かない。政治的な主張をするというだけでも短文のために言葉足らずになるうえに、拡散性が高いことを考えると危ういツールではある。

長文が書けるブログはどうか。政治の話をして他者とコミュニケーションが取れる場として使うことが広まっているとは思えない。私がみていないだけであるにはあると思うんだけど。社会現象になったものは「保育園落ちた日本死ね」がある。これは生活の苦しみの感情を爆発させたようなものであり、コミュニケーションを図ろうとしたものではない。

 

政治の話をするというのはもしかしてそういうことなのかもしれない、と思うようになった。データに基づいて冷静に議論するものではなく、ひどく感情的なものなのだ。

「こんなに苦しいという声があるんです!助けて!どうにかして!」ということ。ものすごく語弊があるかもしれないが、百姓一揆のエネルギーのようなものが政治を動かしているのだと捉えるようになった。人間の生活のエネルギー、感情そのもので政治が成り立っている。

テレビのワイドショーや国会の様子、選挙に対する違和感はここに対する私の認識の甘さだったのだろう。

子どもの頃は、会見をしている政治家たちがみんなボソボソと喋るなんだか冴えないおじさんたちで不思議だなと思っていたが、いまでは感情をみだりに扇動していないという意味では信頼ができるなと思う。

 

政治的な話がとても感情的なものだとすると、政治を変えようとする力は怒りや悲しみからくるものばかりでそれは確かに日常でする話としては難しいというのがよく理解できてしまう。それでは政治の話を日常で当然のようにするというのは日本では当面厳しいだろう。

 

政治的なことに対する冷静な議論が難しい理由はたくさんある。

現状起こっていることをできるだけ正しく認識するのがまず難しい。

例えば、現在のコロナ渦という現状を把握すること。コロナがそもそもどんなものなのか、感染状況、医療体制、経済への影響を感情を含まないデータを集めてできるだけ正しく認識するというのは一般人には不可能に近いかもしれない。

そしてそのうえでコロナ渦でオリンピック開催について議論となればさらにぼんやりしたものになる。そもそもオリンピックって人がどれくらい動くのか、どうしたら中止になるのか、中止したら経済損失がいくらなのか??

だから自らの生活からの視点であったり断片的な情報でそれぞれが主張することになる。それは議論ではなく主張の強さのバトルになり、平行線もしくは断絶を深くしてしまう。

 

「オリンピック開催したらコロナの感染状況はどうなるのか」という気持ちをブログに書き残そうと思ったけど政治的になるから躊躇したのをきっかけにこんなブログになった。あまりに取り留めがなく、終着点がなく、一番感情的なのは私である。