海底の先

日常や本、映画などで心が動いた瞬間を文章にします。

物欲、物欲、物欲

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 

しょっぱなから物欲の話をしたいと思います。

煩悩いっぱい。

そんなに物が多くなくても幸せに過ごせるというのは前提として、

なにかが欲しいという気持ちは動くエネルギーになってくれるので

贅沢に物欲にまみれてみたいと思います。

 

贅沢な物欲といえば思い浮かぶのは美容関連ですね。

エスケーツーの化粧水を使い続けてみたい。

公式通販をみたら、160mlで1万8千円ですってよ、奥さん。

さらにはふき取り化粧水、美容液、乳液とラインをそろえて使いたいですね……

美容皮膚科でフォトフェイシャルとか医療ハイフも定期的にやりたい。

こういうのって一度やればいいわけじゃないから諭吉が定期的に飛んでいきます。

 

髪や爪もお高いサロンで手入れしたい。

 

あとはお洋服。

なかなか着る機会がないから見るだけになってしまってるお高いブランドで

可愛いと思ったものめちゃくちゃに買いたい。

 

アクセサリーとかカバンとか工芸品に近いというか職人さんが作ったのを買いたい。

 

あとはジムを契約して運動したいな~

プールあって綺麗なところがいいです。

 

美味しいものも食べたい。美味しい蟹とメロンが食べたい。

 

欲しい本をいくら買っても置く場所に困らない本棚が欲しい。

そしてそんな本棚を置く場所が欲しい。

究極の物欲、家。

 

物欲の話をしようと思ったのに、目に見えないものも多くなってしまったけれど

最終的に家という究極の物欲に辿りついたのでよしとしましょう。

いやでもわりと典型的で軽薄な成金の物欲って感じで自分で笑っちゃいました。

カネとモノだけじゃやっぱり案外満足度は低いのかもね。

でもまあ夢見て現在のエネルギーにするのはいいでしょうってことでこの話は終わります。

 

 

 

 

 

自分の感情への疑い

 

私は困ったことに、生理前に情緒が不安定になるめんどくさい女なのである。

 

昔の話だが、お付き合いしていた人の発言や行動に対して生理前だけ不安になったりムカついたりすることがあった。

それだけならまだしも、なんだかとっても気持ち悪く思えてしまうのである……

「生理前だけ彼氏のことがキモくなる!どうしよう!あれ?でもこれはいつもは我慢しているということなのでは??」といった具合だった。

 

混乱したメンヘラ女の一丁上がり!

 

ホルモンだかなんだかに自分の感情が操作されている、自分が自分でコントロールできない。いつが本物の自分や感情なのか?そもそも通常のときなんてあるのか?

 

自分の存在や意志は一体なんなんだろうかという疑いを持つようになった。

 

なんてめんどくさい女なんだと自分でも思うが、程度は違っても人間の感情は自分でコントロールできないシステムで動かされているものなんじゃないか。

人間の動物性。

このことはみんな感覚で分かっているけれど、そんな恐ろしい脆さを直視せずに自分のことは自分でコントロールして自らの意思で行動していると思っているんだと思う。

そうじゃなきゃ恐ろしくってなにもできないわよ。

そうでないとなにもかもが幻想になってしまうし根本的な自信を失ってしまう。

 

だからそれでいいんだけど、自分以外の人を見るときは人間の感情の脆さに対する視点も必要なんだろうなと思う。

過度に相手を責めたりしないためにも、できるだけ自分を自分でコントロールするためにも必要な視点なんだろうなと常々思うんだよ。

 

…でも自分は自分でコントロールできるものだ、だから他の人もそうなのだと疑いもせず自信を持って思っているほうが動物として強いから人間社会でも強いんだろうなとも思う……

 

人間社会で自らも生き残りつつ、人に理性的に優しくなるためにはどれだけの強さが必要なんだろうか…… 

 

主旨もなんもない文章になってしまったので、とりあえずここらへんで終わりにします。

 

おやすみなさい。

 

 

水槽のなかにいる

 

自分の限界について考える。

 

世の中にはいろんな情報が溢れていて、その海の中にいると自分の可能性まで無尽に溢れているような気に無意識になっているのかもしれない。

 

しかし現実は自分の身体を使って、そのなかで自分のキャパシティとそこにある環境の中で生きるしかないのだ。

 

自分のキャパシティはかなり狭いらしく、それを自覚していないときは自分のキャパを超えたことをしたいのにできなくて苦しんでいた。

しかし限界を徐々に理解していく。

 

人生というもののイメージが、海で好き勝手に泳ぐようなものから水槽の中でくるくる回る姿に変化する。

それは滑稽だけれど、誰もがみんな身体という水槽は飛び越えることができないものだからそういうものなのだ。

私の水槽は小さいかもしれないけれど、海と比べたら水槽の大きさなんてたいした違いはない。

 

人生の時間は限られていて、その中で人が自分の意志を持って行動できる時間なんてほんの一握りだ。

だから水槽のなかでどう幸せにくるくる回るかを目指した方がいい。

 

理想と現実のギャップに苦しくなった時は、水槽のなかにいることを思い出して想像すればいい。

 

水槽を眺めているのは神さまなんだろうか…

 

 

講談、なんで好きなの?

ふと、改めて講談の好きなところを箇条書きしていきたいと思ったのでします。

 

・音だけでも楽しめる気軽さ(映画を見たり読書する元気がないときでもOK!)

 

・想像力を働かせて楽しむことができる

 

・話がシンプルであったり突破であっても読み手によって魅力がつまっていて、ひとりで語る(読む)という芸への興味深さがある

 

・いろんなことを知っていくと世界が広がっていくような楽しさがあり知的好奇心を刺激される

 

・歴史も深く話の数も多く、追いきれないジャンルであり新たな発見が常にある

 

・同じ話でも、いろんな講談師のものを聞き比べすると違いがあって面白い

 

・むしろ同じ人でも年齢や会場の雰囲気などなどで別物になるので何度聞いても面白い

 

・演者と観客の一体感が高まった瞬間の高揚、生物である儚さ

 

・脈々と受け継がれてきた伝統芸能であり、その世界にどっぷりと浸かることで江戸時代などと現代が断絶されたものではなく積み上げられた繋がっているものだと実感できる(音がメインでシンプルだからこそそのような想像力が働くのかもしれない)

 

・なんだかよく馴染みのあるような、自分のテリトリーのなかの文化であるという感覚が講談の世界にはあり、日本で生まれて育ってきたというアイデンティティが自分にあることを発見できる

 

・現代の西洋化された感覚とは違う視点があり、新たな視点で物事を考えられたり視野が広がって楽になるような感覚を覚えることがある

 

・「教え」「説教」的要素があり自らの人生を考えるきっかけになる(現代でいうコーチング的な要素?講談師、講釈師は「先生」だしね。)

 

・杓子定規な正論だけじゃ生き残れない世界で生きる生命力の強さを吸収できる

 

・講談師は個性が強い人が多く、魅力的

 

・年齢を重ねても面白くて素敵な人たち、特に生き生きしてる女性の講談師の方々を見ると歳を重ねることへの恐怖が和らぐ

 

・チケットの値段が安価で過度な商業主義がなく、趣味として続けやすい

 

・公演回数が非常に多く、予定を合わせられなくても過度に落ち込まずに済み社会人に優しい

 

まとめると、自分に足りなかったものや世界に触れる喜びがあり、またその流れで内省を促し自らの血肉として取り入れることを無理なく自分のペースでできる、ということかもしれない。

……無理やりまとめた感があるが、今考えてるのはそんな感じ!

 

  ----------------キリトリ線----------------

 

この前、末広亭の夜席に途中から行けたんだけど楽しかった!

f:id:a2019-09-24:20211217073608j:image

f:id:a2019-09-24:20211217073614j:image

 

 

 

 

 

反抗のススメ

 

「産んでくれなんて頼んでないッ!」

いかにも、反抗期の子どもたちが良く言いそうなテンプレの台詞ですね。

だからこそこんなことは言っちゃいけないとか、ガキっぽいとか、説教する人が現れます。

元気な子どもたちはそんなのにメゲちゃいけません。大きな声で「産んでくれなんて頼んでないッ!」って叫ぶべきです。

 

反抗期でいれるうちに、親や周囲の大人が元気なうちに、怒りをぶつけて愚かになっておくべきです。

大人になったらあまり非常識な行動は取れませんから、反抗期のような怒りを持っていても仕舞い込んで自らのなかで一生引き受けねばなりません。 

そうすると怒りが自らのなかに溜まり、鬱屈として歪んだ思想を持った大人になってしまいます。

 

その結果が、自分自身が新しい命を誕生させるのは罪だという認識を持った私のような存在です。

大雑把に言えば、反抗期の頃の私が今の私のなかに棲んでいて許してはくれないのです。

反出生主義というものに近しいのでしょうが、私は他人がどのような選択肢を取るかには興味はありませんし、誕生することになった命は祝福したいという気持ちが素直にありますので安心をしてください。

 

反抗期の子どもたち、今後苦しまないためにもじゃんじゃん反抗すると良いでしょう。

親のエゴで産まれてきたのだから困らせてナンボです。

親は、自分の今までの行為を否定されたような気分になって怒るかもしれませんが、それはそれで自然な成り行きです。怖がることはありません。

雑にぶつかっていくうちに、親は子どもが抱えている生きづらさや苦しみに辿り着くかもしれませんし、子どもは親の愛情に気が付くかもしれません。

そんな素敵なことは起こらないかもしれません。

ただ自立のために必要な過程なのだと思います。

世の中の子どもたち、どうか健やかに育ちますように。

「詩」とようやく仲良くなった

 

「詩の解釈はそれぞれでいいのよ」という言葉は私の上をつるつるとすべるばかりだった。

いや、言っていることは理解できる。

小説でもなんでもどう感じるかは人それぞれでしかないからその延長線上のことだと思えばいい。

それでもある程度の正解はあるはずだ。国語の問題にだって答えはあり、作者にだって描きたかったものや伝えたかったものがあり、比喩には例えた元の事柄があるはずだ。

詩は短さゆえに一言でも捉え方が違うと詩そのものの意味や色が変わってしまう。

その繊細さがひどく怖い。

まったく違うように捉えられてしまったら作者は無念なんじゃなかろうか。

 

作者にはこんな人生があって、こんな事柄が起きたときに書かれた詩なんですよ、という背景まで知識を得て、ああなるほどと安心をする。

ここの比喩はこの時代ではこういったものが、とか、この解釈とこんな解釈があって、とか、こういった技法があって、とかそんなことを知れば知るほど安心するのだ。

 

しかし、これでいいのか?

疑問を持ちながら、それ故に詩を好んで読むことはなかった。

 

道重さゆみちゃんのポストカードが貰える詩集フェアにつられて何冊か読んでいたところ、詩の解釈は自分のためだけにするのだ、していいのだということが実感として分かるようになった。

他人の作品で自分の世界を持つなんて傲慢なことだとも思うけれど、それが許されるのだと思うようになった。

作者が様々な情景や事柄から受け取るものに手を伸ばし思案したように、私も詩をきっかけに自由に思いを巡らせてよいのだ。

 

詩は花や草木や太陽、雨などと同等のものなんじゃないかなぁ。

 

 

カウンセリングに行った話

 

カウンセリングに行ったことについて記録していきたいと思う。

数年前の話なんだけどね。

 

☆行った理由

常に人とのコミュニケーションが苦手であり、緊張しやすく、うつっぽくなりやすいところがある。それがカウンセリングでなにか楽になれるような糸口があるんじゃないかなあという期待と興味があったので行った。そして社会人2年目くらいでようやく土曜日にカウンセリングに行こうとする元気がようやくでたというのもある。

闇の時期が来る前の対策みたいな。

 

☆場所選び

通える距離であること、臨床心理士または医師によるカウンセリングであること、適切な値段設定であることが条件で探した。

これが面倒であり本気で元気がないときは探そうなどと思えなかったのである…

近場の50分8,000円のところに落ち着いた。適正価格から離れていないと思うし専門職への敬意も払いたいが、なかなか痛い出費であることは間違いない。

 

☆初回面談

困っていることを話し、生まれてからどう過ごしてきたかを聞かれて答える。

努力不足じゃなくて元々そういう性質みたいなことを言われる。

 

☆5回以上は通ったが……

結果として予定が重なってキャンセルしてから行かなくなってしまった。

理由としては具体的になにかをする場ではないというか、なにを目的に話しているのか分からなくなってしまったのである。

共感をされても心が動かないし落ち着いたりもしなかった。これは本気で行き詰った闇の時期だったら感情が溢れるみたいなこともあったかもしれない。

しかしこの時のメンタルは自分で土曜日に外に出られるくらいは元気で、「50分8,000円使ってる!!」というプレッシャーに近いものもあって感情な救いより少し具体的なものがほしくなってしまった。

元々そういう性質と言われても、さて、私はどうしたらいいの?とポカンとしてしまったところがあったが、それは自分でどうにかせねばならないということなんだなと思った。

具体的な解決の糸口なんてどこにもないのだ。

自分のことを50分延々と話して聞いてくれるという体験は日常でないものだと思うので、不思議な感覚になることはあった。だからカウンセリングとして成立していたとは思う。自分がどうしたいのか探っていくというか。

しかしなにも湧いてこない、空っぽなのである……

あと「もっと困っている人はいる」と言われたのが嫌だったのもある。

そんなんめちゃくちゃ分かってはいるがそのうえで私は私なりに困っててどうにかしようと思ったし悩みを話す場だからマイナスなことを話しているだけであって楽しいことも日々あるし今はわりと元気だし……あれ、元気な時に行った私がいけないのでは??oh……となってさらに予約を取ろうとはしなかったのである……

 

☆今思うこと

最近、「カウンセリングルームで起こる問題は日常でも起こることである」みたいなことを聞いてなるほどなと思った。カウンセリングルームに通って私に起こった問題は、目的意識の薄さ、どうしたいか分からなくなる自我の薄さ、などである。

うぉお、確かに私そういうとこあるわ、耳が痛い。

カウンセリングでどう思ったか振舞ったかを客観的に見てみようとするといいのかもしれないね。ということでこのブログを書いてみたよ。おわり。