海底の先

日常や本、映画などで心が動いた瞬間を文章にします。

お互いを否定しているわけではないのにね

 

通勤するときになぜか頭が動いてなにかを考え始めるクセがあるっぽい。

以下は今日ぼんやり考えていたことです。

あまりまとまっていません。

 

「コロナ禍であっても五輪をやってよかった」という結論になるのは感染の拡大を抑えつつ無事に終了したときである。

 

感染拡大の可能性というデメリットは、スポーツ大会における感動というメリットで消せるものではない。

それらは分けて考える必要がある。

 

けれど選手の活躍をみて、「感動した!五輪開催されたからこれが見れた!よかった!」と思うのも自然な気持ち。

 

コロナの感染拡大へのおそれから五輪を不安に思う気持ちと、選手の活躍に感動する気持ち、この両者が争う必要はない。

別の次元の話だから結論は出ない。

 

けれどこの両者の争いをツイッター上であったり、リアルな口論であったりでよく見かける。

ツイッターの文章も会話の中の話し言葉もすごく言葉足らずだ。

 

こうした意味のない争いはこのオリンピックの例だけではなくて殆どが意味のないものなんじゃないかと思ってしまう。

 

分断。

 

話し合えば分かるというが、話す本人が自分の気持ちを理解していないとそれは成り立たない。

結果、ただお互いが「自分が不快になるからやめろ」という内容になってしまう。

 

そういう人たちを見て、複雑な問題にはなにも意思表示をしないのが大人の振る舞いなのだと思う人もいる。 

確かにそれは一種の処世術でもある。

だけど、なにも意思表示しないのはなにも考えていないことと他者からしたら変わらない。

社会の様々なことに対して向き合っていたいと思う。必要なときには意思表示をするのが大人だ。

そうありたいときにどうしたらいいんだろう。

どうしたらいいんだろうね。