海底の先

日常や本、映画などで心が動いた瞬間を文章にします。

嫉妬すらできない


 9月が去った後の朝は小雨が降っていた。涼しくて過ごしやすいはずの気温であるのに手足が心なしか重い。気に入っている傘を選ばず、ビニール傘を持つ。

 

 出勤途中は相も変わらず芸のないネットサーフィン。はてなブログのトップページである記事に目が留まる。

blog.hatenablog.com

 

 一部分にぼやんとした共感のようなものを覚える。いやしかし、ブログ更新のために生きる…つまりは文章を書くために生きるということで、そこに迷いや不安はなかったのだろうか。私はいろんなことに迷いや不安だらけだ。

 上記の寄稿文を読むとそれはなかったのだろうなと思う。文章で生計を立てるとか、人に読んでもらって嬉しいとか、そういうことではなくてあまりにシンプルな「文章を書く楽しさ」自体に魅了されている。ひどくうらやましい。ほぼ無意識的に当然の流れとして「乗代雄介」と検索する。

 

book.asahi.com

 

 その生活で、その膨大な読書量で、一体なぜ自己が独りよがりに肥大しない?なぜそんなにもバランス感覚がいいのか。文章を書くのが上手くなるためには他者の目線が必須だと思っていたのだが違うのか。他者の目線すら自己のなかにあるのか。

 

 

――その頃から、将来、作家になりたいと思っていましたか。

「なれるんじゃないかとは思っていた気がします。そんなに意識はしてなかったし、むしろ、目指すとかそういうことじゃないなと薄れていく感じでしたね」

 

 「書き手」として確かに信頼ができると感じた。情報があふれているネット社会において、文章を書くことを仕事にしたいと思うとみなに注目されるネタを注目されるように派手に書く現象を目にする。そして書き手自体の存在、キャラを濃くしていく。所謂、「バズる」ことを目的にしてしまう。その現象について言及すると長くなりそうなので控えるが、ばっさり言ってしまえば疲れるのだ。

 乗代雄介氏が文章を書くことに向き合った結果として作家になっていることがなんだか嬉しいと思った。

 

 良い文章は共感や近い存在であるという感覚を持たせてくれることがある。けれど最後に著者の経歴が目に入って偏差値の高い大学であることを知り、無駄に何故か申し訳なくなる経験が何度もある。学歴コンプって訳じゃないんだけどね。私は推薦で実力以上の大学に入ってしまっているし。学歴自体が重要なのではなく、スペックの違いを思い知る。すごいと思ったものと表面上同じ行動をしても私はああはなれない。

 

 そうこう考えているうちに会社に到着する。手元に傘がないことに気が付く。やっぱりなと思う。出かけにお気に入りの傘を選ばなかったことは正解だったのだ。これが自分を知るということか。

 

 乗代雄介氏、こうして言及されるの好きではないのだろうな。そう思いつつ、書き手としての真似できない憧れをひっそりとこのブログで書いてしまう。