海底の先

日常や本、映画などで心が動いた瞬間を文章にします。

映画『ミッドサマー』ネタバレ注意感想 

 

ネタバレ注意 自分のための覚え書き

 

 

 

 

観終わったときに思ったのは「一体なにを観てしまったんだ??」である

映画をつくるのであれば伝えたいもの(教訓めいたものだけではなく楽しさやドキドキや美しさも含む)があるわけで…観終わったすぐは一体なんのための映画か解釈が上手くできなかった

 

⭐︎序盤について

ダニーの妹が両親を巻き込んで無理心中する。

ダニーは彼氏であるクリスチャンに依存状態。

クリスチャンは周囲の男友達から揶揄されてもダニーを見捨てることはできず表面上は優しい。しかし面倒なことからなんとなくで逃げているため言動にブレが多い。

そんなクリスチャンの言動を理解しようとするダニー。だがそこを紐解いた先にあるのはクリスチャンがダニーに向き合っていない、尊重していないという事実でしかない。

末期の状態のカップルの会話や仕草がリアルでなんとも味わい深い。

「重い女」ではないかと心配するダニーが泣く時には周りから離れて1人になる姿は印象的である。あの泣き方もリアル。

頭に浮かぶキーワード「見捨てられ不安」

 

⭐︎ホルガ村について

先鋭化された小さな集団や閉じた民族…ここではカルトと言えばいいのか…それらが陥りがちな思想や抱えがちな矛盾ってどこの国でも似たようなものがあると思っていて、その1つのパターンの典型的な存在がホルガ村であると思った。つまり、実際に存在していそうと思わされるリアリティがヤバい。

ホルガ村は様々な矛盾を抱えながらもその村の維持のために手段を選ばない。その最大の核は「輪廻」なのだろうと思った。

頭に浮かぶキーワード「文化人類学

 

そして文脈の分からない文化への恐怖というものの存在を理解した。倫理観、死生観、家族観、食物、言葉、プライバシー、性に対する感覚…すべての文脈(背景)が分からないもしくは違うと自分の命や安全に対する不安がつきまとう。生命の不安を取り除こうとするのは動物における根本的なメカニズムであると思った。その不安を持つ者が集団になると民族迫害や戦争に繋がるのだろう。

(語弊があるが)日本は海に囲まれた単一民族なんだなぁと思い知らされた。私は、他人の文化の尊重や多様性はとても大切なことであり、それは当然のことだとも思っている。しかしまぁそれは自らの危機がないから呑気にもぼんやり思えていたことなのかもしれない。ホルガ村に行き着いてしまった恐怖というものを疑似体験した。そこでも私は他人を迫害せずにいられるか?ホルガ村はカルトだからそこまで考えなくても、とも思うがなにをカルトとするのかもただの自分の本意の視点でしかない。それでも他人の文化の尊重は大切であると信じたいので、そう行動するために他人を知ることや距離感、自分の考えの自覚ができるように日々鍛錬せねばなぁと思った。ホルガ村からは現実のいろんな民族や集団の儀式や思想、歴史を思い出すことがあって、それがあったから落ち着いて観られた。もし全て自分に知識がなく初見の価値観であったら拒否感は凄かったであろう。恐怖に飲み込まれて感情的な拒否や迫害をするのではなく、自分の関わり方を考えていくべきである。他人の尊重は自分の能力がないとできないのである…うう…

追記 いろいろ感想を見て、過剰な他人の尊重は殺人カルトの消極的な支持に繋がることもあるのでバランス感覚が非常に重要だと思った。じゃないと、ホルガ村を論文のためとはいえ無意識にも肯定しようとしたクリスチャンのようなバッドエンドを迎えてしまうからね。老人が自死を選ぶ価値観を老人ホームに無理矢理入れるほうがグロテスク…などと噛み砕こうとしたまではいいけど、友人がおそらく酷い目にあっているということをなんとなく察しながら無視してなんの問題も起こっていないように思おうとしちゃいけなかったのだ。(まぁクリスチャンは面倒を避けがちで表面は優しくとも根本は激しい自分第一の性格ゆえにそんな行動になったんだろうけどね…)

様々な感想を見て知ったキーワード「文化相対主義

追記おわり

 

⭐︎クリスチャンが体験した性の儀式に対して

自らの命の危機を感じている環境において何かしらの薬物の影響で望まぬ種付けのための性行為をさせられ射精までさせられるというクリスチャンがレイプされたシーンだと私は捉えました。絵面から「笑えるもの」としてだけ捉えている人もいて、確かに笑えるような絵面なんだけどそれも含めて残酷だなぁと思いました。(クリスチャンの状況を知らない)ダニー視点で浮気と表現してる人もいて…レイプされてるのを笑われたり浮気と言われる、クリスチャンにとって何重にも残酷なシーンだなぁ。

 

⭐︎ダニー視点における「セラピー」意見に対して

クリスチャンからの共感を得られなかったダニーがホルガ村の人たちに迎え入れられ、悲しみや苦しみの共感や共鳴をしてもらえてよかったね、クリスチャンを自ら生贄メンバーに選んでさよならよ、みたいなおおまかに言うとそんなカタルシス…みたいな見方があるみたいなんですが。

私にとってはそのセラピーとカタルシスは受けられなかったんだよなぁという自分における感想です。理解のない共感には私は救われないんだなぁと思いました。あの悲しむための悲しみ方には葬式における「泣き女」を思い出しました。私は理解が欲しいんだなぁ。

あとあの生贄を燃やす儀式、あれはクリスチャン自身の死という事実的な側面を捨ててダニーの恋心の死という概念的な捉え方をするとカタルシスとして受けることができるんだなぁと考えて分かりました。あの笑みが復讐達成の笑みとはなんだか思えなかったのでその捉え方はなるほどなぁと思いました。ダニーはクリスチャンの心が自分に向いていないのは分かりつつ1人になるのが怖くて諦念を持ちながらクリスチャンと一緒にいたんだと私は思っていて。そこにあるのは復讐とか殺したいという気持ちではないと思うんですよね。

 

ミッドサマーを気軽にハッピーエンドというのは、カルトに吸収されたのをハッピーエンドというようでグロテスクだなぁと思います。

いやハッピーエンドと捉えている人はそういう意味で言っているわけじゃないんだろうなとは思うんだけども……

あと、ホルガ村のみんなは悲しみや苦しみを表現しているときにダニーは笑う描写があるので完全に吸収されて個を失ったわけじゃない、ホルガ村を利用というか、ホルガ村がダニーのためにあったというようなメタ的視点意見にはなるほどなぁと思いました。なるほど。いやそれでもグロテスクだよなぁ。

頭に浮かぶキーワード「人類補完計画