海底の先

日常や本、映画などで心が動いた瞬間を文章にします。

『読書について 他二篇』 感想

ショウペンハウエル(1788~1860)による『思索』『著作と文体』『読書について』の三篇が納められている。訳は斎藤忍随。

 

『思索』

読書以前に我あり、だと思った。

私はいつからか、私の考えたことなど他人がすでに上手に書いているのだという考えを持っている。そしてそれは事実なのだ。この『思索』ではそのようなことに対してだれでも悩まされるとしたうえで「けれども自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる」と主張する。この主張には長年の無力感から抜け出せるような救いがあった。

 

『著作と文体』

アァ~~~なんたる厳しさ。さっきの『思索』では救われたのに『著作と文体』でコテンパンにされる。さっきあんな優しかったのに。アァ~~耳が痛い。私なんぞは物書きですらないのに耳が痛い。

金銭のために書くということ、物事や自分の思想ではなく他人の思想自体が根本のテーマとなってしまうこと、匿名で批評することの罪、他人の文体を模倣することのつまらなさ、短いことが書名の生命であるから…等々。みなまで言わんといてください。表現も強いのでもうコテンパンどころじゃないよ、もう。少しでも自惚れたことのある物書きは途中まででもいいのでこれを読もう。

 

『読書について』

やはり、読書以前に我あり。人生の時間の中で読める本は限られている、そして自ら考えよ。「真の文学は永遠に持続する文学」と語られているが、現代ではショウペンハウエルがそのような古典となっている。文学に対して厳しい姿勢を持ちながらそれを完成させている凄さを思い知る。

 

この三篇は、物書きや読書家だけでなく情報に溢れた現代に生きる全員にとって耳の痛い話だ。人間は同じ愚かさを繰り返し続けているのだ。ああ、書影に書いてあることと全く同じことを書いてしまいそうだ。

 

「出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほどに新鮮である」

 

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