海底の先

日常や本、映画などで心が動いた瞬間を文章にします。

働く理由について

 

転職して2年目、働くうえでのモチベーションが保てなかったのが一番の反省点。

 

「役に立ちたい」という単純な気持ちで働くと役に立てなかったときにめちゃくちゃモチベーションが下がる。

役に立てなかったというか、役に立っていると評価されなかったとき、という表現が正しいだろうか。

仕事の評価、なんてものは数字に出やすい職業ならともかく、そうではないと雰囲気というか人間関係みたいなもので決まってしまう。

まあ、思いっきりつまずいたわけです。

人間関係が苦手なうえにそれをカバーできるような有能さもない。

有能でなくとも一生懸命真面目に働いて役に立てるように頑張ろう、とやっていたのですが上司が私を邪悪なもののように扱うので気力が奪われていきました。

 

そしてそんな自分が嫌でした。他人に仕事のやる気が左右されてしまう自分の軸のなさ、傷つきやすさ、弱さが嫌でした。

 

なぜ働くのか、を自分なりに再考した結果、「社会との繋がり」という面が大きい。

お金を稼ぐため、だったら今の仕事をしていないと思います。

でも本来なら生活のために仕事をしているというのが健全なのですよね。

生活のために理不尽にも耐えれる状態が大人。ただ私は自分の生活が価値あるものだと思えないから、生活のために仕事をしないといけないという状況をつくりだしていない。そんな面でも自立できていないんですよね。

ただ無理やり経済面で自立を試みたらそれこそ完全に崩壊する自分の弱さも分かっている。だから頼れるものに頼りながら、「働いているという状況」を維持するのに精いっぱいの年でした。

 

「社会との繋がり」のなかで良い存在でありたいのだと思います。特別褒められたいとか、優秀でありたいとか、誰かに必要とされたいとか、そういう強い承認欲求とはまた違う。ただの勤勉な労働者でありたいというか。ただのひとつの変哲もないひとつのピースになりたいだけ。普通になりたいということなのでしょうか。

 

そんな中で私を支えてくれたのは前職のときにいただいた言葉であったり、益田先生のYouTubeであったり。益田先生のYouTube、特にライブ配信なんかはついダラダラとみてしまっていたのですが、そこで価値観とか考え方がいつの間にか頭に染みついていたようです。職場で上手くいかないときにどうしたらいいかとか、上司をどう理解したり捉えたらいいのか、とか。単なる知識じゃなくて感覚として伝えてもらったものがあってだいぶ支えになりました。知識を引き出して使うとかいうレベルじゃなく、自然と考え方や行動に移せるんですよね。教育効果が高すぎて結構怖い。

 

私のやる気を削いだのも、支えてくれたのも結局は人間。

 

難しいものですね。

こんなに自分に軸がないなんてびっくりしちゃった。3年目はもうちょっと強くなろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

女の子が天使になる時 『すっごいFEVER!』

 

youtu.be

 

\\\\すっごぉいぃいい////

 

モーニング娘。’23のリーダー譜久村聖ちゃんの卒業を控えたこの曲。

 

テンションが高めでご機嫌だけど、どこか切なくて懐かしい曲調。

 

「今夜君は天使さ」というソロパートは見どころ。

君=天使そのもの、ではないんだよね。

 

「青春全てをかけてること あんた知ってるかい

家族と一緒過ごすよりも 長い時刻んでるよ」

君は家族がいたり、時間が有限な人間である。

 

「青春誰かと見比べても なにも始まんない」

の歌詞に続く

「素敵すぎる人生だよ こんな幸せはない」

は強く高らかに歌い上げるというよりは

Fever Whenever 上等

というテンションの高い歌詞が覆い被さるようなタイミングで入る。

MVのダンスのフォーメーションもそう。

青春の迷いや戸惑いがあってもずっとそこには留まっていられない走り続けるモーニング娘。のめまぐるしさを感じた。

 

でもモーニング娘。から感じる熱量は決して嘘ではなくて、「誰より真剣」に「とことん楽し」んで「とにかく輝い」て作りあげてきたものなのだ。

だからこそ「きっとみんな幸せにする」という歌詞に説得力がある。

 

アイドルとして偶像であるだけじゃない、悩んで努力して人間味があるモーニング娘。つんく♂さんの曲がやっぱり好きだ。

 

\\\すっごぉいぃいい////

 

 

 

『好き?好き?大好き?』R.D.レイン

 

舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』の元ネタになった『好き?好き?大好き?』という詩集があるらしい…と復刊のタイミングで知った。

これだからネットの海は面白いね。

 

詩というのは教養のなさを思い知らされるというか、「なんだかよく分からないけれどすごいんだろうなというアート」的に感じてしまうものがある。この詩集も正直に言えばそう。

 

R.D.レインは1927年イギリス生まれの精神科医精神分析家。

この詩集をよく理解するためには精神医学の知識、それも当時の雰囲気、そのなかで彼がどう考えていたかを知っている必要があるんだろう。

後世のいろんな作品の元ネタになっているにも関わらず、絶版になっていることが頷けた。

あまりにマニアックすぎる。

 

精神医学や精神分析については益田裕介先生の「精神科医がこころの病気を解説するCh 」https://youtube.com/@masudatherapy?feature=shared 

がきっかけでふんわり知っている。

だから「ユダヤ人」と「精神分析医」という言葉が同じ詩で出てきたときに、精神分析をつくったフロイトユダヤ人だったな…と分かる。ただ、いまいちその詩をどう解釈すべきか分からん。

 

この詩集における「27 どうにもしかたがない」。の問答の彼はおそらく精神科医で、すっごいイヤな奴、そのイヤな奴加減というのはめちゃくちゃ伝わった。村上光彦による訳者あとがきにもこの詩に言及があり、レインがどのような背景を持ち、なんのためにこの詩を書いたのか理解度があがった。

私が言うまでもないが、訳者が本当に素晴らしい。

異論が出ると覚悟した「好き?好き?大好き?」との訳でなければ、後に様々な作品の源泉になることはなかったことは明白。

訳者あとがきを読めば、この詩集を紐解く手掛かりがたくさんある。訳者あとがきから醸し出される文学への愛情に乗せられ、深い世界に潜り込んでみたくなる。

 

1927年イギリス生まれの精神科医がみてきた世界を詩にして、日本のフランス文学者が1978年に素晴らしい形で訳して、様々な作品に影響を与え、やがて絶版となるもゲームで引用され話題になり、それを機として2023年に復刊して、私の元に届いた世界。

なんか、不思議だ〜

 

『結ぼれ』も復刊してほしいなぁ

 

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映画「すずめの戸締り」感想

※容赦なく結末に関わることを書くので、観てないかたは読まないでね※

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私は新海誠監督の映画のファンで、しかし「君の名は。」「天気の子」はどう捉えたらいいか分からないという気持ちだったのです。

好きなシーンがあって、その瞬間はめちゃくちゃ好きという。しかしストーリーは「うーん?」という感じ。

 

前置きはさておき。

 

すずめの戸締り、ストーリーとしてはシンプルだと思いました。そして各所に観る人の記憶や好きなものにひっかかりそうな「キー」のようなものが散りばめられている。そのため、この物語でなにを思うか、なにを主軸とするのかというのは観る人によってかなり異なると思いました。

 

私にとって短くまとめるなら、すずめが旅のなかで優しさと愛に触れて「大丈夫」と知るという物語、だと思います。

 

この映画は全編において愛に溢れています。常に愛が漂っている。

愛されている日本の街、愛を持って描かれた人間、破壊と恐怖にすら愛が漂う。

 

「夢」「もう会うことができないもの」「気が遠くなるほどの長い時間」

「約束された運命」

 

そして、出てくる人間がみんな善良なのです。

それもとても自然なかたちで…

そう、人間ってみんなだいたいはやさしいもの。

世界は思っているより安全。

 

3.11というトラウマを描いていながら、大丈夫、わたしたちは生きていけると理屈ではなく感覚に知らせてくれる物語。

 

すずめは家庭の事情はあれど、元々悩んで病んでいたとかそういう描写がされているわけでないのです。

だから、生きていけると知ったときの感動の根本にある苦しさは観ている人のものでいい。

 

その他のことについてもなにを投影するかは観る人に委ねられていて、だからストーリーとしては「弱い」んだけど、多くの人の心の情景に入ることができる映画なんじゃないかと思います。

 

 

とりあえず、部屋の掃除はできていませんが、感想が書けたので頭の中で年を越える準備はできました。

それでは、良いお年を。

 

 

 

感想『「神様」のいる家で育ちました』

 

世界を作った存在を神と人は呼ぶのだろう。

 

私は神様はいない…というより単一の神という存在を意識しないし、死んだら無になると思っている。

私にとってそう考えるのが楽だからだ。

私はそれを選択している。

 

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池真理子先生の『「神様」のいる家で育ちました』(文藝春秋)で描かれている宗教2世の子どもたちはそうはいかない。

 

そこの難しさや苦しさを想像するだけでひどく重いものがある。

失礼な表現かもしれないが、ゾッとするものがある。

 

それにも関わらず『「神様」のいる家で育ちました』は読んでいてただ辛くなるものではなく、人間の強さやあたたかさをも表現している。

 

多くの人に読んでもらいたいと素直に思う。

 

そういえば私には、小学校の頃にとある宗教の家庭の子だろうという友達がいた。

今思えば、家庭の問題が透けてみえていた。

おとなしくて可愛くてきょうだいを大切にする子だった。時の流れと共に連絡を取らなくなってしまったことを後悔している。

今、どうしているだろうか…

 

ひとりごと

 

このブログは検索された結果読まれることはほぼないのですが、それでもそれを避けるためにあえて国名はいれません。

 

戦争が本当に始まってしまうと気軽に不安だとも言ってはいけない気がしてしまいます。

感情はできるだけ抑えて、ただただ淡々と日常生活を送り、それでも情報を見つめながら自分がどういう考えを持つかを確かめていくしかないというか……

 

Twitterには本当なのか分からない現地の人の情報なども溢れていて、それを拡散してしまうことが戦争に加担することに繋がるのではと思ってしまいます。

 

困っている市民のためにと思って寄付をしようと思っても、そのお金が武器となり人を殺すことに繋がるのではないかと想像してしまいます。

 

ニュースを見ても、そもそも「陥落」とはどういった状況なのだろうとか、制裁として資産の凍結をすると聞くと、へぇそんなことってできるんだ…と思ったりして知らないことがたくさんあることに気が付きます。

 

私にも分かることは、憎しみは憎しみを生むということです。

今は戦争に反対している人たち(それは兵士たち個人の心の中も含む)も、自らや身内が危機に晒される状況が続いたら武器を手に取り人に向けるようになります。

最初は自衛と言いながら武器を手にしていたかもしれないけれど、いずれ憎しみで武器を手に取るのでしょう。

こんなものは早く終わらせなければなりません。

 

……どうやって?

 

 

緊迫した情勢をきいていても、「戦争は起こらないだろう」そして「こんなものは長くは続かないだろう」という気持ちが自分のなかにありました。

そして、それが今までの戦争のなかでよく思われていたことだということにもすぐ気が付き、よく分からない失笑が生まれました。

「クリスマスまでには帰れるだろう……」

 

この戦争はいずれなんと呼ばれるのでしょうか。

 

歴史を学ぶ大切さを、歴史は現在と地続きであるという実感をこんなことで得たくなかったと思います。

 

今までも武器により一般市民が亡くなるような紛争は起きていたはずなのに今更ショックを受ける自分の浅ましさ…「あっち」と「こっち」を無意識に分けていたような浅ましさ……

 

 

まとまっていない文章ですが、まとめる気もありません。

 

まず私は私の日常をきちんと送ることが重要でしょう。

私の日常は吹き飛んではいないという事実が目の前にあります。

 

 

バカの一つ覚えも時には大切

ウクライナとロシアの関係が大変なことになってるんですね。

 

国際情勢に疎く、さっき知ったというレベルなのでそれそのものについて語りたいわけではありませんが………

 

ウクライナとロシアの歴史をサラッと知ったりして、いろいろと思うところがありました。

 

子どもの頃によく思った「なぜ戦争は起こるんだろう」ということの答えのようなものについて再度見つめてしまったというか。

 

1回の事件で起こることではなく、今までの長い長い歴史のすべてと、様々な政治的判断の積み重ねで起こるもの。

だから、客観的に何が起こったか事実の判断は困難を極めるし(そもそも1つの正しい見方はないのだろう)、難解で分かりにくいのだ。

国民に届く情報は正確であるとは限らない…そもそも正確な情報ってなんだ?

そのなかでそれぞれがそれぞれの立場で歴史や現在の物事を解釈して考えを強めていくから、互いに正義を持っている。

お互いに正しいことをしていると思っている。

 

複雑に絡み合って起こる現象が戦争だからこそ、「戦争は絶対にいけない」というシンプルな考えは意味を持つのだと思う。

 

小学生の頃は平和教育をまじめに受けつつ、戦争の悲惨さだけをとにかく学ぶことはなにか本質を欠いているような気がした。

でもそれでよかったのだと大人になると思う。

 

「戦争は絶対にいけない」と主張するだけじゃ平和は訪れないし、武力のようなものを持つことも現実として必要だけど、だからこそ「戦争は絶対にいけない」とシンプルな考えが大切なのだと思う。

 

当然のことなんだけど、改めてこういうことを見つめるといろんな思いが出てくるね。

 

もし子どもの頃に別の教育を受けていたら私はその世界観の中で生きていたのだろうと思うよ。

 

そして戦争の悲惨さを学びながらも特定の国へ反感を抱くことのないような平和教育を受けられたのは第二次世界大戦があったからと言えるし、それを無駄にしちゃいけないと思うし、人類は人類の愚かさを忘れちゃいけないのだ。

 

安直にこっちの国が悪いとかあっちの国がなんか怖いとか、なんとなくのイメージで持ちそうになるんだけど気を付けなきゃなぁと思ったよ。